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社員と息子たちへ

巨富をつかむ! Vicious(ビシャス)マーケティングのすべて           

~ ライバルを活用し、自分だけが最も有利なポジションに立つ!

現存する最強のマーケティング手法を伝授 ~

●━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━<第124号>━━●

~ 正統派か、異端派か?(いい子かきかん坊か) ~

「お前のやっていることは正統じゃないぞ」

ビシャス(非道徳)をモットーとしている私にはよくこのような
ことを言ってくる人がいます。

サラリーマンの方たちも社内には「異端」という人が必ずいると
思いますが、決まってその人たちは出世ができないで社員生活を
終えていくといいます。

「異端」が力を発揮するのは、そんな社員生活に嫌気をさして会
社を飛び出すか、上司に反発してクビになるかで結局会社を飛び
出し、独立したときなんですね。(最近は私と同じように“倒産”
して独立という人も多いようですが・・・)

でもいつも私は考えてしまうことがあります。

「正統」ってどんなことをいうのか?

「異端」ってどういうことをいうのか?

このようなことを考えると結局、「正統」は「異端」がいないと
成立しないし、「異端」は「正統」がいないと存在しない。

このようなことがいえるのではないかと考えました。

とにかく物事にはまず、“型(基本)”というものが存在する。
それがなければ「正統」か「異端」かの区別ができないはずです。

何事も型があるから、それの枠を超えると「天才」と
か、「異端」というものが生まれるのだということになるの
かなぁと思ってしまったのです。

そこに昨日、樋口祐一さんの本(ホンモノの思考力)にこんなこ
とが書いてあったのです。

「「型」を守ると、没個性になると思われがちだが、私はむしろ
逆だと考える。個性的なことを考えると、どうしても理論を逸脱
し、辻褄があわなくなり、主観的になっていく」

「だが、「型」を守って手順を重視すると、そうしたことがまぬ
がれる。安心して個性的なことを織り込むことができる。その思
考は客観性をもつことになる。」

ちょっとむずかしいですか?こういうことでしょうか。

最初から「個性」を強調すると単なる“わがまま”になり、一人
よがりになる。しかし、「基本」を守ることを覚えれば、そこに
自分の「個性」をいれると「個性が豊か」とほめられてしまう、
とこんなところですかね・・・

またその本にはこんなことも書いてあります。

「モーツァルトは35年の生涯に626曲を書いた。その中には
3時間を超すオペラやレクイエムなど、30分以上かかるオーケ
ストラのための交響曲が多数含まれる。

『ドン・ジョヴァンニ』序曲を一晩で、しかもビリヤードで遊び
ながら書いたという逸話がある。」

「これほどの多数の曲を書けたのは、いうまでもなく「型」があ
ったからだ。この作曲家たちが、「型」を利用したからだ。
「型」を利用して、破綻することなく、次々と名曲を作曲できた。

聴衆も「型」があったから、安心して音楽を楽しめたのだ」
ようするのこの偉大な作曲家たちは音楽という「型」があったか
らきちがい扱いをされないですんだ、ということになります。
(ちょっと乱暴ですが・・・)

そのことを樋口さんは、

「作曲家たちは、「型」―すなわち様式の中に自分の才能をはめ
込もうとした。もし「型」がなかったら、モーツァルトは、悪魔
から与えられたとしか思えないような驚くべき才能をもて余し、
うまく表現できなかったのではあるまいか」

「おどろおどろしい個性、誰からも理解してもらえないような才
能、そうしたものが「型」を守ることによって、誰にも理解でき
るような音楽として提出されたのだ」

「型」があったからこそ、その才能の個性が導かれた・・・
これはマーケティングにも共通すると思うのです。

DRMという「型」があったから私の能力が生かすことができた。
きっとその「型」がなければ、私の考える力というのは発揮でき
なかったのです。

そしてこの章を樋口さんはこう結んでいます。

「そもそも能力のあるものが個性を発揮するのは、ある程度「型」
を押しつけられて、それに反発するときではないだろうか。
初めから自由にされたのでは、何も身につかない」

「アカデミックな考え方を知り、それを身につける。だが、だんだ
んとその形式では窮屈になってくる。そうして新しい「型」新しい
個性が生まれる」

「「型」を押しつけられてつぶれるような個性であれば、そんな個
性はすぐにつぶされていくだろう」

なんか自信がつきますね!非道徳をつらぬいてここまでこれている
ということは、少なくてもつぶされてはいませんから。

とにかく「個性(自分)」を出す前には「型(基本)」をやりつく
す、これが大事ということを再認識させてくれる本の一説でした。

ですからサラリーマンの方もただ、自分の個性を主張して飛び出す
のではなく、「型(基本)」となる仕事をやりつくして飛び出す、
ということでないと独立・起業はうまくいかないと思います。

「いい子」になるのではなく、「きかん坊」になる前に「いい子」
とは何かを理解する。

こんなところでしょうか。

ではまた来週・・・
生を変えた一曲

高校一年の冬。
弟が私の部屋にあったCDコンポでノリノリのロックを聴いていました。当時はコンピューターの打ち込みが全盛期で、この種の曲が流行していました。私自身はあまり音楽に興味があるほうではなく、ギターに凝るような高校生でもありませんでした。
そんな私が、はじめて耳にするその曲にしばらく聴き入っていました。
 私 「この曲誰の?」
 弟 「ビーズ」
 私 「ビーズ?」
そのバンド名を聞いた瞬間は「あの丸い粒のことを言っているのだろうか?」と思いました。弟が発するそのバンドの名前を私はそれまで知りませんでした。
その時に初めて耳にした曲というのはB'zの『BOYS IN TOWN』(アルバム『BREAK THROUGH』に収録)という曲です。ギターのイントロやサビの部分が印象的でした。しかし、私が心を奪われたのは音やリズムというよりも「歌詞」でした。

歴史に「もし」はなく、また一個人の人生にも「もし」がないとしても、この瞬間が私の人生を大きく左右し、その後の人生を変えたと思います。もしもあのとき、B'zのこの曲を耳にすることがなかったならば、起業家としての私は存在しなかったでしょう。
運命にせよ、偶然にせよ、私のその後の人生はこの曲に強い影響を受け、そして導かれるように展開していきました。
この先、インタヴューで「人生を変えた一曲はなんですか?」という質問をされることがあれば、私は間違いなくこの『BOYS IN TOWN』を挙げるでしょう。

ちなみにこの曲は、自分の住む小さな街から飛び出して、もっと大きな街で成功することを夢見る若者の心情を描いています。
自分に自信のある若者であれば、今の環境がどうであれ「もっと自分にはデカイことができるはずだ!将来は絶対に成功できるんだ!」と心の底では思っているに違いありません。

特に住んでいるところが田舎であれば、「都会へ出たら成功できるんじゃないか」「都会に出ればチャンスがあるんじゃないか」と感じるでしょう。しかし、心の底では思ってみてもなかなか実行には移せない。親の反対にあう人もいるでしょうし、守らなければならない家もあるでしょうし、離れがたい友達がたくさんいるでしょうし。もしかしたら漠然とした夢しかなくて、何から手をつけてよいのかわからないという人もいるかもしれません。

中学校のときから「将来は大企業の社長になる」という夢を持っていた私としては、この歌詞を聴いて「やっぱり奈良に住んでいたんじゃダメだな」と思いました。そして、更によく考えていくと「関西でもダメだな」という結論に至りました。

確かに奈良高校の学生は優秀です。しかし、彼らに対して私が一点だけ物足りなさを感じるとするならば関西から出ようとしないことです。実際、大学受験の際に私の周りで積極的に関東に出ようとしたのは私だけでした。他のみんなは京都大学や大阪大学等を目指していました。

奈良は地理的に恵まれていて、関西の有名大学のほとんどは自宅から通えてしまいます。便利といえば便利ですが、そのために経済的な負担をかえりみてまで日本の中心地・東京を目指そうとはしないのでした。
「増永がそういうなら、俺も東京に出て行こうかな」
私の話をきいてそんなことを言う友達も、私の話に感心するような友達もいませんでした。

「友達を捨てていく気かよ」
「奈良のほうがいいんだよ」
「将来のことなんてよくわかんないよ」
みんなはそういいましたが、「このまま奈良で歳をとるなんて嫌だ。自分だけは絶対に奈良から出るんだ」と決心しました。

私はB'zの稲葉さんの歌詞が大好きです。前向きに生きてゆきたいというポジティブな私にぴったりなのです。とてもピュアでストレートな表現がいいなと思います。「どうしてこんなにいい詞が書けるのだろう?」ということで調べてみると、彼は横浜国立大学教育学部を卒業していて、数学教師の教員免許も持っていることがわかりました。当時の私は「頭がいいから書けるんだなぁ」なんて思って妙に感心していました。

『BOYS IN TOWN』の歌詞には「その街は渋谷?」と思わせる表現が出てきます。私はそれを「渋谷である」と断定しました。
「将来、大きなことをやってやるぞ!渋谷に出るぞ!」
そう思うとますます奈良に住み続けるなんてことは考えられなくなっていきました。

人生は一度しかありません。

10代、20代、30代・・・そのときそのときというのは一度しかないのです。だから、やるべきときにやるべきことをやらないとあとで後悔することになるかも知れません。
10代は勉強に徹しよう。
20代はチャンスに懸けよう。
30代は・・・

誰に何を言われてもいいのです。先生に「関西を出る」といったら「お前はバカだ」といわれるかもしれません。両親に「奈良を出る」といったら「仕送りしなくちゃならなくなる」といわれるかもしれません。友達に「俺はビッグになって帰ってくる」といったら「なれるわけないだろう」といわれるかもしれません。

「自分の人生だから自分で決める」
奈良にいたって楽しいけれども、もっともっと楽しいことをしたい。
「お前には無理だ」といった人達を悔しがらせてみたい。
正義は勝つ

私は「正義は勝つ」という言葉が好きです。「全てが従うべき正しい道理」を貫き通せば、たとえ何百年という歳月が流れようとも必ず勝つと信じています。
ただ正義というものには難しい一面があります。宇宙の真理とも言うべき正しい道理もあれば、人為的に定義された道理もあります。前者を自然的正義とすれば、後者は人為的正義と呼ぶことができるかもしれません。

この二つの正義をしっかり見極める事ができるかどうか。
1633年、地動説を唱えたガリレオ・ガリレイは、自然的正義を唱えて人為的正義に罰せられました。「それでも地球は回っている」と小声でつぶやいた彼の自然的正義は、1992年のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世による謝罪により報われ、実に359年もの歳月をかけて人為的正義に打ち勝ったのでした。

実はこの自然的正義のもとに行動できる人というのはなかなかいません。私もそのうちの一人なのですが「あるべき姿」を見定め、自然的正義を貫く事は難しいことなのです。
人は多数決の原理に弱いものでしょう。「周りの目」も気にします。そうしなければ「社会的に成功できない」「社会的につまはじきにされる」というリスクがあるからです。周りに反抗するよりも、周りに同調するほうが生きやすいのが社会というものなのかもしれません。

「当たり前」「常識」と呼ばれているものを覆すには非常な困難が伴います。しかし、長期的に見て或いは自然的正義に基づいて考えてみた場合に、自分が信じた正義を貫き通すことができるのか。真の起業家が問われるところです。

私の中学生時代最後の思い出は、高校受験になります。制服の第二ボタンを欲しいといわれるようなモテる男ではありませんでしたからね(笑)。今でも「タブー」を口にする私ですが、昔から「正しい」と思ったことは口にもしますし、貫き通す性格でした。

奈良高校に入学するべく、ちゃくちゃくと準備をしていた私は「合格確実」と周りから見られていました。自分でも自信がありました。ただ、やはり志望校一本で受験するのはリスクがあるということで「滑り止め」として私立高校を受験することになりました。奈良県では公立高校の受験が3月で、私立高校の受験が1月2月と先に行なわれていました。

ある難関校の試験会場に朝早くに出かけてゆき、私は試験が始まる直前まで抜かりなく勉強に力を入れていました。その高校は倍率が10倍で、会場の席は縦に10席並んでいて、教室には40席ありました。ですから、一列あたり1名、一教室あたり4名しか合格しないという狭き門だったのです。ハイレベルなライバル達が受験しに着ていると考えるとまさに激戦と呼べるでしょう。

ところが、隣の席に座っていた学生二人が前後でペチャクチャおしゃべりをしていました。ただおしゃべりをしているくらいならば無視していたと思うのですが、彼らは次のようにいうのです。
「みんな馬鹿やなぁ、こんなぎりぎりになって勉強しても意味ないやん」

努力している人を馬鹿にするなんて、どうして許されるでしょうか。私の正義感が激しい炎となって燃え盛りました。
「おまえら、黙れ!努力してる人を馬鹿にすんな!」
私は吐き捨てるように言いました。すると一人が「お前が俺に勝てると思ってんのか!」というので「正義は勝つ」といってやりました。

合格発表の当日、ちゃっかり彼らの受験番号を控えてきていましたので確認しました。予想通り結果は不合格。ちなみに私は無事に合格。
「努力は人を裏切らない」といいますが、人一倍努力してきたからこそ、自信を持って彼らとも対峙できたのです。そして努力の裏づけにより「正義は勝つ」という勝利宣言をすることが出来たのです。

正義は勝たなければならないと思っています。たとえ一時的に負けたとしても最後には勝たなければならない。そうしなければ社会の秩序が維持されないからです。もし彼らが合格し私が不合格であったとしても、一時的な負けであって長期的に見ればどこかで勝つのだと思います。
中国の思想家である孔子の言葉を紹介したいと思います。

「最大の名誉は決して倒れない事ではない。倒れるたびに起き上がる事である」
どんなことがあっても不屈の闘志で起き上がることが出来るでしょうか?倒れるたびに起き上がることができるならば、最後には必ず名誉の勝利を収めることができるでしょう。

ここからは余談のエピソードとなりますが、滑り止めの高校に合格したため「お母さん、2週間以内に20万円の前納金払っといてや」と母に頼んだところ、「あんたどうせ行かないんだから払わなくていいでしょ」といって払ってくれなかったのです。

私は驚いて「うそやろ、前納金払わんかったら滑り止めを受けた意味がないやん」と抗議しました。すると「どうせ受かるんだからいいでしょ」と。
結局このときの経験がもとで、大学受験の際には滑り止めの前納金を払わないというのではなく、滑り止めの受験をしませんでした。大胆にも、本命以外の資料や願書も一切取り寄せなかったのです。本命だけを受験し、たとえ落ちたとしても翌年受ければいいということで、本命しか受けませんでした。

せっかく合格した私立高校も前納金を納めなかったために効力が失効し、ぶっつけ本番で奈良高校を受験しました。
私が通っていた三笠中学校からは20名が受験しました。「受かる人順」に各校から振り分けられて受験したため、私を含めた19名が合格し、理由は分からないのですけれども一人だけが不合格となりました。
こうして直線的な性格が、幸いしたり災いしたりしながらも最終的には無事に高校生となる事が出来ました。

中学生時代には人間関係で悩んだ事もあります。当時の私の性格では人とうまくなじむ事が困難でした。そういう意味では、高校時代というのは人間関係に恵まれた時代だったと思います。全く同じ性格でも、周りにいる人によっては良くもなり悪くもなるということが後になってわかりました。
やはり家庭環境に恵まれないと(恵まれていたとしても)ひねくれて成長してしまう子供もいます。どうしようもない友達もたくさんいたことも事実です。自分自身の努力を持ってライバルに勝とうとする人ならよいのですが、努力では勝てないということで足を引っ張る人もいます。一方的に嫌がらせをする人もいます。こういうことには本当に悩まされたものです。

ところが、高校時代にはさすがといいますか、奈良県は学区制ではなく、全県区として優秀な人間が集まっていましたので、「かなわないから足を引っ張る」ですとか「ねたましいから嫌がらせをする」という人がいませんでした。自分自身の能力を最大限に引き出しても、競り合うことが多くてよいライバルに恵まれたと思います。

今、人間関係で悩んでいる人もいるでしょう。しかし、人間関係が上手くゆかないのは自分自身だけが悪いとは限りません。周りにいる人の人間性によっても大きく左右されるというのが現実の姿だと思います。なんらかの過去の出来事に影響されたのでしょう、意地悪な人や嫉妬深い人が自分に関わりなく生み出されています。

ただ、今となっていえるのは、性格の悪い人からいじめられようとも「目には目を」的な対応は自然的正義の観点からみて正しくないと思います。ですから「正義は勝つ」と信じて、正しい選択をしていかなければならないでしょう。「それでも私は必ず勝つ」と。
3年間を通じて人間関係に恵まれた高校時代でしたが、私の人生や人間性を大きく変える出来事もありました。中学時代は中学時代で、高校時代は高校時代で、つねに貴重な経験をさせて頂いたなと運命の女神に感謝しています。

夢はあきらめた時点から終わりなのです。
「もう少し若ければ」という人がいるかもしれません。そんな人は歳に関係なくあきらめる人です。年齢が問題なのではなく、意識が問題なのです。

今はまだ若い。今からなら何でも挑戦できる。今から取り組むほうが有利だ」

これは60歳になっても同じことだと思います。
「今」が一番若いのです。今気づいたならば今やるべきなのです。
将来、この歌詞に出てくる若者が思い描いていることを、私がかわりに実現してみようと思いました。実際、高校時代に決めたこの目標のほとんどを、15年経った今、実現しています。

「夢は叶う」

確かに夢は叶いました。
夢が叶わなかったという人は、真剣に夢を描かなかった人ではないでしょうか。

真剣に描いた夢は、それがまだ夢の段階であったとしてもリアルに感じることが出来ます。まるで今既に叶っているかのような。だから、実現していない段階であってもそれを楽しむことさえ出来るのです。
現実であろうとなかろうと、強く思い描いたことは頭の中で楽しむことが出来るわけです。

「将来はオープンカーで奈良に帰るぞ」
それを頭の中で詳細に思い描くことで、今あたかもオープンカーに乗っているような気分を味わうことが出来るはずです。だからその夢を叶えるために努力している間も、既に持っている気分で楽しいわけです。
お金なんてその典型例でしょう。鉛筆で通帳に「0」を3つくらい足しておいて、「私はお金持ちなんだけど、現金は銀行に預けているだけです」と思っていればよいのではないでしょうか。

「まだ夢の途中」

私はそんな夢に至る過程を思いっきり楽しむことができる人間です。「夢の途中」でも「夢が叶った」という状態をリアルに思い描けるだけの想像力があるからです。

もちろん、自分の大きな夢に臆病になることがないわけではありません。でも将来に臆病になることに、将来をあきらめることに意味が無いのです。将来なんて誰にもわからないのだから、"最善"を想定しておくのが最高の生き方だと考えています。

その後、私はB'zにハマります。
カラオケに行ってもB'zの曲ばかり歌うようになります。
B'zのCDはすべて持っています。
稲葉さんの髪型や服装を真似するようになります。

稲葉さんのルーツを知るために岡山の高校やご実家である稲葉化粧品まで訪ねていってご両親ともお会いしてきました。
稲葉さんの出身大学にも進学しました。
就職した大和証券での支店配属では渋谷支店を希望して配属してもらいました。

その他にも影響を受けたこと、やったことは数え切れません。
私にとって稲葉さんは一番かっこいい理想の男性です。頭がよくてハンサムで、人柄がよくて素晴らしい詞が書けて・・・。

「理想の人を見つけたら、一つでも多くその人の真似をするようにしなさい。一つ真似るごとに一つ理想の自分に近づくことが出来るからです」

稲葉さんが大学時代に横浜で下宿していたというマンションの一階には蕎麦屋さんがあります。起業してから、私はそのお店に訪ねていきました。
「あなたは若い頃の稲葉君に似てるわね」
お店のおばさんが私にそういったのは、高校時代から強く稲葉さんのようになりたいと思って生きてきたからでしょう。ただし、何をもって「似ている」といったのかはわかりませんが(笑)。

『BOYS IN TOWN』
渋谷にまつわる(と私が決めた)この曲が、私を渋谷へと導き、結果として私は起業家の道を歩むことになります。
あの頃の自分、その後の自分も振り返ってみて、これまでの自分はよくがんばったと褒めてあげたいと思います。15年後もきっと、今よりもずっと大きく成長していて、その時に振り返ったらまた同じように思うことでしょう(笑)。

「あの女の子は何組だろう?」
その日から学校に通うことが楽しみになりました。学校の登下校の時も、授業の合間の10分の休憩の間も、バドミントンをやっている体育館の中でも、彼女の姿を見かけるだけで心臓がドキドキしました。こんな気持ちになったのは生まれて初めてでした。

3年生になるまで勉強には本気にならず、入部したバドミントン部にも本気にならないと決めていた私。どこか冷めたところのある私が本気になったのは彼女のことでした。

彼女のクラスが気になった瞬間、あれは私が「恋に落ちた瞬間」でした。
未来からさかのぼって考える

私は中学生の時から「大企業の社長になる」という夢を持っていました。父がゴルフを楽しんでいる姿をうらやましがっている際に、「社長クラスとゴルフがしたかったら、お前も社長になれ」と父から言われたからです。そして、どうせ社長になるのであれば大企業の社長になったほうがいいなと思ったのでした。

当時、大企業の社長になるためには、大企業に就職して、出世競争に勝ち抜かなければならないと考えていました。「起業」「独立」などという考えは、大和証券に入るまで全く思い浮かぶ事のない選択肢でした。
学歴社会の真っ只中にいたこともあり、大企業で出世するにはよい大学を卒業している必要があり、よい大学に入るためにはよい高校に入学し、よい高校に入学するためには中学校でトップクラスの成績を挙げる必要があると考えていました。

非常に単純な未来構想でした。大企業の不倒産神話が現実としてまかり通っていた時代でしたから、私は大企業に入社し、社長になることは安泰な人生を送るための最善の道であると信じていました。そこにメリットはあってもデメリットはないと思っていました。
もし、デメリットがあるとすれば「社長になるまで努力の連続であるから、疲れるかもしれない」ということくらいしか頭に浮かばず「でも自分は努力家だから社長になるまでやれるだろう」とある種の自信を持っていました。

この大企業の社長になるという夢の他に、もう一つ夢がありました。それは「かわいい子供が欲しい」ということでした。
私が存在するのは、両親やその先祖が子供をしっかり育ててくれたからだということで、彼らに対して感謝の念を持っていました。
ですから、将来自分が子供をつくって育てる事は「義務」なのではないかと考えていました。

とするならば、よい子供をつくってよい大人に育てなければなりません。しかし「もしかわいくない子供が生まれてきたら、僕は子供を大事に育てる事ができるのだろうか」という疑問が湧いたのです。
世の中には子供を大事にする親もいれば、大事にしない親もいるということをテレビを通じて知っていたため、私自身が自分の子供に対して一体どのように接するのだろうかという不安がありました。

その解決案が「かわいい子供をつくればいいではないか」というものだったのです。かわいい子供であれば、かわいがるだろうと。
そうすると「やっぱりきれいな奥さんがいいのではないか」と。そして「子供が好きで愛情あふれる優しい女性がいいのではないか」と。次々と理想のお嫁さん像を思い描いていきました。

大人になって、理想の女性と巡り合った時、「私は理想の女性に選ばれるのだろうか」と考えました。さらにいえば、「理想の女性のご両親に快く認めていただけるだろうか」と。そうすると有名大学を卒業し、有名企業に就職していたほうがいいのではないかと。「やっぱりメーカーかな」「銀行のほうがウケがいいかな」とご両親のウケねらいまで想像していました。

「この二つの夢を叶えるということについては、とにかく有名企業に入社するまでは同じ道であり、そうすることで結果として効率よく二つとも夢を叶える事ができるだろう」という結論に至ったのです。であれば、今やることは勉強だと。
中学生時代の私にとってやるべきことは、こうして「勉強する」という「一点」に絞られたのでした。

しかし、ここで私は人間として大きな過ちを犯すことになったのです。
「勉強する」ということに絞りましたから、「勉強に差支えがあると思われることをしない」と決めました。
例えば、私は中学校でサッカー部に所属していて、レギュラーに選ばれたにもかかわらず「テスト期間中だから休みます」といって、テスト期間中は欠席していました。団体競技であるサッカーでチームの和を乱すということは最悪の行為です。

ところが「サッカーをするのは中学校の間だけ、プロもない(と思っていた)のだから、がんばる意味もない。チームメイトとも同じ高校に進学することもないだろうから友情を育む必要もない」と割り切ったのです。

チームメイトに気を使って勉強をおろそかにしてしまうと、自分の人生計画に支障をきたすと思っていました。一時しかかかわらないであろうチームメイトに気を使うことで自分の将来を台無しにするなんて考えられませんでした。

また「彼女を作らない」ということも決めていました。女の子と遊んだり、恋愛にうつつを抜かしていると勉強に支障をきたすと。「中学校で出会った女性と長く一緒にいて、結婚まで至るとは思えない」とも考えていました。ですから、告白されても断り、ラブレターをもらっても封を切らないというありさまでした。

付き合ったとしても、どうせ中学校を卒業したら別れるのであれば、或いは大学で奈良から出て行く際に別れるのであれば、付き合わないほうが自分のためでもあり、相手のためでもあると考えていました。
さて、このような人間に人望はあったのでしょうか?あるはずがありません。

周りから見れば「冷たい人間」「協調性のない人間」「笑顔がない人間」というように映ったでしょう。全くそのような人間でした。
そのうち「人と話をすると揚げ足をとられる」「自分の話をすると相手が嫉妬する」「会話の内容自体に中身がない」「気分を害されるくらいなら会話しないほうがマシ」と思い始め、同級生となるべく話をしないようになっていました。それでも全く平気でした。

私から誰かを批難したり、悪いことをしたり、ちょっかいを出したり、うそをついたり、人の邪魔をしようということは思いませんでした。ただ周りからも自分にかかわりを持ってほしくなかったのです。
まさに学歴社会の弊害を体現したような中学校時代の私。「勉強が出来たって」と後ろ指をさされようと「そうやって人のことを悪く言って、勉強しないと後で泣くのは自分だぞ」と心の中で思っていました。

「徹底する性分」を持ち合わせた私が、人間としてあまりにも未熟な時期にこのような思い込みをしたことを「仕方がない」で済ませることができるかどうかわかりません。性格が180度変わることになる高校2年生の「ある出来事」まで、この人間性が変わることはありませんでした。

結局「気づき」というものが大切で、「気づき」を得るたびに「未来からさかのぼって考える」ということをして、常に方向修正をし続けなければなりません。
私は本質的に「よい人間でありたい」というタイプの人間ですが、非人間的な自分では駄目だということに気づくまでは「非人間的であること」を改善しようとすら思いませんでした。「勉強」にしぼり、夢を実現するという事を徹した結果、別に悪気もなく非人間的でストイックな毎日を送っていたのでした。

正直な話、人間性で乏しかったものは協調性ばかりでなく、「相手を思いやる心」「人を楽しませる心」「優しさ」「気配り」「愛情」といった人として大切なものの多くが欠如していたと思います。
一面「優等生」一面「冷たい人間」という中学時代の私。納得してそれに徹していた私。

今の私が過去の私を振り返った時、「駄目なやつだなぁ」と思います(笑)。しかし、あの頃の自分があったからこそ、あの頃の積み上げがあったからこそ、今の自分があり、明るい未来の自分があるのだろうと思います。
「性格は変えられない」という人がいますが、少なくとも私は変えられました。これからも変わると思います。「変えられない」と思う人には変えられないですし「変えられる」と思う人には変えられるのです。
未来も同じではないでしょうか。明るい未来をイメージできる人には明るい未来が訪れ、明るい未来どころか夢も希望もないとあきらめてしまっている人にはそれなりの未来しか訪れない。

イメージした未来の違いが、今の自分の行動も考え方も人間性さえも、がらりとかえるものです。
もし私が、当時違う未来をイメージし、違う未来からさかのぼって考えていたならば、また今の自分とは違った自分があったのでしょうね。
自分でやるしかない

小学校に入学して、最初に不安に感じたのは「九九を覚える」ということでした。
足し算と引き算しかできないときに父から「これからは九九を覚えないといけないよ」といわれたのですが、九九というものがわかりませんでした。そこで父に「九九って何?」と聞いたところ「九九というのは掛け算の基本で、これを暗記できないと算数ができないよ」といわれたのでした。

小さい頃から私は、「準備をする」ということを知らず知らずのうちに意識していました。
イソップ物語の『アリとキリギリス』というお話を知らない人はいないでしょう。しかし、これを本当の意味で実践している人は、私の周りではあまりいなかったなと思います。

とはいえ、私もそれを小学校の頃から徹底してやってこれたわけではありません。「準備をする」といっても、「何を準備するべきか」ということがわかっていなければ、準備のしようがないのです。そういう意味では「気づき」を得てから準備してやってきたということになります。

さて、九九についてですが、私はその存在を知ってからすぐに勉強を始めました。なぜなら、学校で習ってからすぐに覚えられるかどうか不安だったからです。授業を受けてから必死に覚えて、万一覚えられなかったらみんなから遅れてしまう。だったら、先に覚えてしまっていたほうが安心できると思ったわけです。

当然、みんなより先に勉強していれば、後から勉強する人たちよりも成績がよくなります。小学校の前半は、特に意識しなくてもよい成績が取れました。
ところが、ちょうど高学年になってからゲーム機が流行りだしました。このゲーム機で遊んでいなければ友達との会話についていけないし、友達もできないのではないかというくらい流行していたのです。私はこのゲーム機を買ってもらって、まわりの友達同様、ゲームの攻略に夢中になっていました。成績もそれにつれて下がっていきました。

そんなある日、リビングで寝そべりながらゲームをしている私に向かって、見かねた母は次のように言いました。
「遊んでばかりいると、将来、天王寺公園で新聞紙に包まって寝ることになるわよ。」
私にはよくわからなかったので、どうして天王寺公園で寝なければならないのか尋ねました。

お父さんもお母さんも、あなたが大人になったら養ってあげられないの。大人になったら自分でお金を稼がないといけないの。それにお母さんたちが死んだら、あなたは一人で生きていかなければならないでしょ。自分で生きていくためには働かないといけないの。」

とてもショックでした。両親が死ぬなんてことを考えてもいませんでしたし、自分が大人になったら誰も養ってくれない。今は当たり前だとわかることも、初めて聞いたときには急に不安でいっぱいになりました。
どうすれば生きていけるのかと母に尋ねると、働かなければならないということ、働けるような力をつけるには自分で勉強しなければならないということを聞かされました。

とはいえ、そんなに努力をしなくてもまわりの子供たちよりも成績がよく、いわゆる受験勉強のようなハード・スタディーをしなくてもよかったので、緊迫感のようなものもありませんでした。おそらく、まわりの子供たちも勉強していなかったわけですから、相対的に成績がよかっただけでしょう。

「準備をする」という点では私は、学校からの宿題や課題は早めにやるようにしていました、特に夏休みの宿題のようなものは、夏休みに入る前に全部片付けてしまうということをずっとやっていましたので、夏休みが終わる頃に宿題で泣いているお友達のようなことはありませんでした。

先にやっていれば夏休みはずっと遊んでいられるということをどうしてみんなは気づかないのだろうかと不思議に思っていました。レベルは低いですが先が読める人と読めない人の差はこんなところにもありました。

結局、九九を覚えるにしても、学校の成績をあげるにしても、父や母が代わりにやってくれるわけではなく、また、自分がやらなければ習得できないし、意味もないということを学びました。そして将来生きていくためには、生きるための準備をしなければならず、「自分でやるしかない」という心構えを持つようになっていました。

ある意味自由奔放に、先々準備を怠らず、自分でやりたいようにやって自信を持って生きていた小学生時代。早くから「自立」の大切さを学べたことは大きかったと思います。

しかし、その小学生の最後の最後に私にとっては人生の大きな転機となる事件が起こりました。
その先に何があるのか

私は奈良の平城というところで幼稚園の終わりまで過ごし、小学生にあがるとともに引っ越して高校を卒業するまでは、同じ奈良市内の新大宮というところで育ちました。
幼稚園時代に過ごした平城には秋篠寺というお寺があります。

このお寺は、秋篠宮さまの名前のゆかりとなったお寺として有名です。私の家のそばと秋篠寺のそばを秋篠川が流れており、私の家から川の中を歩いてのぼっていくと、秋篠寺に着くといった感じでいつも川の中をじゃぶじゃぶとつかって歩いていました。

この頃、私は幼稚園児ながら「探検家になりたい」という夢を持っていました。
そんな私にとって、この秋篠川にはロマンのようなものを感じていました。
あるとき、自分の頭よりの大きな亀に遭遇し、その亀が岩の下を住処にしていたので何日もかけて捕獲しました。またあるときは、とても大きな赤い鯉を発見し、何とか釣り上げてやろうとがんばったものです。
ちょうどその頃、探検隊のテレビ番組も流行っていたのでよく見ていました。
ジャングルの中を目的地に向かって歩いていく。その行く手には毒グモ、毒ヘビ、猛獣、険しい崖、洞窟など、さまざまな生き物や障害物が行く手をさえぎっていました。それでも彼らは進んでいく。その先に未知なるものが存在し、それを白日の下にさらすのが彼らの使命だったのか、私にはわかりませんでした。

ただ「その先に何があるのか?」という好奇心が私の心を埋め尽くしていたことは今でも覚えています。
そんな子供時代でしたから、とにかく未知なることに挑戦したいという気持ちを抑えきれず、秋篠川を上流に向かって上って行ったことが度々ありました。途中にヘビがいたり、トンネルがあってクモの巣が張っていたりしても、夜になって暗くなるまで、とにかくその先にあるものを目指して上っていくという感じでした。

起業家の素質というものを考えたことがあります。私が必要だと思う起業家の素質は次のようなものです。

誠実で、前向きな、勉強家。

人生とは、日々勉強ではないかと私は思っています。

「昨日より今日、今日より明日の自分は成長しているか?」というのが私の一日単位の命題です。これを毎日確認しています。昨日よりも今日成長するためには新しいことを学ばなければなりません。新しいことを学ぶためには、新しい挑戦をしなければなりません。
「あなたはなぜそこまで勉強熱心なんですか?」と聞かれることがしばしばあります。私が勉強できる理由は、その先にあるものを信じているからです。

その先にあるものとは何か?それは「理想の自分」です。私の人生は他人との戦いではなく、常に理想の自分との戦いでした。理想の自分はイマジネーションが膨らめば膨らむほど成長していきます。そうするとどうなるのでしょうか?理想の自分に追いつくために、どんどん現実の自分も成長していかなければならなくなるのです。

「本当に追いつけるのか?」と不安になることもあります。おそらく本当に追いつくことなどないのかもしれません。しかし、やらなければ追いつくことなどありえないことをすでに知っていますから、前向きに取り組むのです。
理想の自分に追いつく過程には、「小学生の頃に中学生ではこうなりたい」みたいなものがありましたが、過去に思い描いた理想に関して言えば、今までそのほとんどを叶えてきたと思います。
結局のところ、自分の描いた夢、自分が描いた将来というものが現実化する。そうなるように努力した者にのみ、たどり着くことのできる世界。

前向きでなければ、途中であきらめてしまいます。大変なこと、乗り越えなければならない困難に出くわしても、前向きにその先にあるものを信じてがんばることができれば、たとえ時間がかかったとしても、夢は叶うのではないかと思います。そうでなければ、勉強は続きません。
そして最後に、私は誠実さという要素が非常に重要だと思っています。どんなに勉強をがんばっても、どんなにお金を手に入れても、誠実さというものを根本に持っていなければ、水泡に帰すと。

「その先に何があるのか?」という問いを常に自分に問い続ける。そうすれば理想の自分はもっともっと膨らんでいく。幼稚園の頃には見えなかった世界、知らなかった世界が、振り返ってみれば確かに存在していたなと思います。
将来の夢は立派な社長

私は2000年8月8日に社長になりました。まさか26歳で社長になるなんて、その一年前でさえ考えたこともありませんでした。

幼稚園を卒業するとき、卒園企画で、「自分の将来の夢」をカセットテープに録音しました。そのときに吹き込んだ夢は「探検家になりたい」でした。

そのときなぜ探険家になりたかったのかはわかりません。幼い頃から好奇心が強いほうで、探検家になりたいといっていたくらいですから起業家になる素質をもともと持っていたのかもしれません。

中学校に入ってから、父と将来について話をしたことを覚えています。

父から「お前は将来どうしたいんだ?」と聞かれて、「僕は社長とゴルフができるようになりたい」と答えました。

当時、サラリーマンである父は「接待ゴルフ」と称して毎週のようにゴルフに行っていました。父にとって一番の趣味であるゴルフを「仕事」という名目で行くのを見ていて、「楽しそうだなぁ、僕もサラリーマンになって接待ゴルフ三昧をしたいなぁ。」と思っていたのが動機でした。ただ、せっかくゴルフをするなら社長クラスと接待ゴルフがしたかったというだけのことでした。

すると父が「だったらお前も社長にならないと、一緒にゴルフなんてしてくれないぞ。社長の友達は社長だからな。社長の友達になるには社長になれ。」といわれたので、「だったら僕は大企業の社長になるよ」といって、その実現のために中学校時代から勉強してきました。

私の学生時代はまさに「学歴主義」が当たり前で、受験戦争に勝ち抜き、大企業に就職して出世することが最大の人生の目的だったかのようでした。その価値観に敢えて逆らおうという気もなく、また、それ以外の人生設計も思い浮かばなかったというのが正直なところでしょうか。

「大企業の社長になるためには大企業に入社して、出世競争で勝ち抜かなければならない」

そう考えていた私は、予定通り大企業に就職し、さらに営業が主体の会社でしたから、「バリバリの営業マン」になるべく営業職に志願して、希望通りに配属されました。

この『起業家物語』は若くして起業家になった私の体験談です。

現在29歳。社長暦はちょうど3年になります。出だしから資本金2300万円を食いつぶしました。そしてさらにマイナス200万円までいってしまいました。今から考えてみれば、「ズブの素人」がいきなりネットバブル崩壊後の厳しい環境の中に飛び込んだのですから、失敗して当たり前でした。

起業してからいきなりどん底を経験し、ものすごい逆風の中を歩み続け、さまざまな困難にひたすら耐えました。しかし、そんな状況から2期目、3期目、そして今期も含めて黒字。毎年増収増益を達成しています。年商も2億を超えるまでに成長しました。

私は金融機関にいたこともあり、経済というものに大変関心があります。特に日本経済を如何に立て直していくかについては、我々20代の世代といっても、やるべきことがたくさんあります。

私たちは今から高い志を持っていなければなりません。これからの30代・40代を経て、50代になったときに、責任ある立場になるのです。そんなときに頼りないようでは日本の将来は絶望的です。

周りのみんながやらなくても、私だけでもやります。どれだけ貢献できるかはわかりません。しかし、今からがんばっていれば、きっとがんばらなかった自分よりは大きな貢献ができる人間になっていると思うのです。

大企業を辞めるということで、両親にも相談しました。大学院まで進学させてもらっていながら2年目で大企業を辞めるのですから反対されると予想していました。

すると父はこういいました。

「お前、目指すなら立派な社長になれよ」

母はこういいました。

「社長業はあなたに向いているわ」

反対されるどころか、絶対にやるべきだと応援されました。ですから私は自分の手で大企業を作って、立派な社長になるべくがんばろうと決意しました。

立派な社長とは経営手腕もさることながら社会にも大きな貢献ができ、そして、人格的にも優れ、人から頼られるような存在になるということです。

地味ではあっても、努力をこつこつ積み重ねて、人として誠実かつ謙虚な姿勢で仕事に取り組み、お客様のよきパートナーとして選ばれるような会社を築いていきたい。私のこのがんばりが、同世代だけでなくみんなの刺激になることを願っています。

今、人類一人ひとりが、
これからの時代をどう生きるかを問われています。
コンピュータとネットワークが社会インフラになった今、
デジタルは言語と同様、自在に使えることが
あらゆるコミュニケーションの基盤となっています。

誰もが自分の責任で人生を切り開いていかなくてはならない時代に、
どうしたら自分を活かせるか、
夢を実現するために何が必要なのかを
真剣に考える人達を支援しているのが、デジハリです。

94年の創立以来、デジハリが
産業界から変らぬ信頼を得ることができているのは、
将来を真剣に考える高い目標意識を持つ人が集り卒業し、
デジタルに関わる分野で高い実績をあげているからに他なりません。
こうした文化を支えるために、
未経験からでも未知の分野に挑戦したい人たちに応えるために、
私たちは常に「世界最高の教育環境の提供」を目指しています。

卒業生30,000名を超えるネットワーク、
ハリウッドをはじめとするグローバルな産業界ネットワークもまた、
みなさんの未来を強力に後押ししてくれるはずです。
時代は想像しているよりもずっと早く進化しています。
今、確かな自信を身につけて、
希望にあふれる21世紀、未来を創造していきましょう。

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